ゼロの本棚

思ったこと、思い出したこと、感じたこと

後悔するほどやりきれ

今日、一ヶ月ぶりに大学にいった。

とくに理由はない。暇だっただけだ。

最寄り駅についた。

着いただけだ。なのにあまりにも多くのことがあふれてきた。

いいこと、わるいこと。うまくいったこと、失敗したこと。満足いったこと、後悔したこと。

全て、一気にフラッシュバックした。それだけたくさんのことがつまった大学生活だったのだ。

今後の人生、今まで経験してきた以上の問題に直面するだろう。

でも、申し訳ないが、私の見解はこうだ。

所詮は今までの延長線上である。

そう思える大学生活を送ったのだと。


人の生き方はそれぞれだ。楽をするだけの人生も悪くないだろう。

しかし、私個人はそれはないな、と思う。

色々思って、それを全て「懐かしい」と思えるのがいいのかなーと思う。

ジブンノキモチに整理もついてないくせにこんな偉そうなことをいっている。

しかし、これも間違えなく、私の本心なのだ。

私は、強く、ヨワイ生き物なのだ。

結局僕は死にたくなかったんだ。

私は、ONE PIECEの名言が好きだ。

心に刺さるものがたくさんある。


そのなかでもドクター・ヒルルクの言葉が今でも突き刺さる。

「人はいつ死ぬと思う・・?
心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う
不治の病に侵された時・・・違う
猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!
・・・人に忘れられた時さ・・・!!」

心のなかで生き続ける、という言葉がこれをうまく表現していると思う。

人は生物だ。生物学的に必ず死を迎える。でもそこは本当の終わりではないのだ。

偉大な人は、尊敬されるべき人は、心のからの恩人は、その影響を与えた人の中で生き続ける。

そして、その人が次の世代に語り継げば、また新しい人の中で生き続ける。この繰り返しで歴史上の偉人もいるのだと私は考える。

生物学的には死んでしまっても、忘れられない限り生き続いているのだ。

ここ数ヵ月、私は多くの別れの場があった。その度に思ったことがある。

私のことを忘れてほしくない

と。

別にこの思いが基盤となり、人と付き合ってきたわけではない。偶然の繰り返しで出会った人の方が断然多い。

でも、もう会えない、また当分会えないと思うと自然と、忘れてほしくない、という思いが出てくる。

これはヒルルクのことばを借りるのなら、
「死にたくない」
ということなんだろう。

人に忘れられないほどできた人間ではないことは百も承知である。それでも、思ってしまうのだ。

忘れられたくない。
死にたくない。
って。

別れ

別れの季節と言えば卒業の3月、一般的にはこうだろう。しかし大学生の私からするとこの時期の方がよっぽど別れの季節だ。

2月3月は特定の人と旅行などがあったりして、意外とその人個人ととゆっくりできるのは今くらいだったりする。

初めは塾時代の親友、次は中学1年生からの親友、次に大学の部活の親友。

三人とも何回かサシでも飲んだりした。これからも、社会人になってから何回かは飯に行ったり 、飲んだりするだろう。

でも、いろんな事がわかって、大人の入り口にいる、でも学生であるこの「今」を過ごせるのは今しかないのだ。

いろんな話をした。アニメの話、将来の話、恋の話、部活の話。

どれもがいとおしい話だ。そして、いとおしい親友たちだ。

さらにさっき、何回か「は」会える、といったがそれこそ何回か「しか」会えないのだ。きっと両手両足で数えられるほどだ。

僕は個人でしか言えない伝えたいこと、言いたいことがたくさんある。

そんなことを考えると、自然と別れ際には涙が出そうになる。

中学生のころ、「友達は一生ものだ」とよく言われた。今なら本当の意味がわかる気がする。


もっと遊びたかった。一緒にいたかった。甘えたかった。甘えてほしかった。

でもそれも有限だ。私がどうこう言ってどうなるものではない。

それぞれの道へ進む、親友、友人たちへ。

皆さんがが納得して悔いのないように、己の信じる道を進んでください。

それでもし、くじけそうになったら、くじけたら、上をみてください。

上をみることさえ辛かったら横をみてください。見えた人はきっとあなたを救ってくれます。

1月もそろそろ終わりそうななか、こんなに夜遅いのに電車が遅れたこともまた運命かと思いながら、ここらへんで。相変わらず思い付きで書いているので読みにくくて申し訳ない。

Can you say your secret?

酔っぱらってしまい、電車で寝過ごさないためになんかしようと思って書いてます。誤字脱字、めちゃくちゃな文面でもご容赦ください、

前に「秘密を守る」という話をしました。なんで今度は「秘密を言う」という話をします。

前回のことをまとめると秘密をまとめることはくそ大変で、次第に人はピエロのようになっていく、といいました。

では秘密を言う側はなにがあるのか。
それは秘密を言う「勇気」が必要です。

これに関しては身勝手な考えだったりするのでまにはうけないで欲しいです。あくまで僕個人の考えです。

そもそもなぜ秘密を言う理由があるのか。これまた守るときと一緒で様々でしょう。言うことで自分の心を落ち着かせる、余裕を持たせる。何かのアクションに対する理由を説明する、などなど。挙げればきりがないのは確か。

何せよ自分がよい方向に向くためにすることでストレートに言うなら自己中心的です。エゴです。でもそれを一概に悪いとは思えません。

なぜならばそれを他人に後悔しなければいけない状況になっているから。そういう時はたいてい人は弱ってます。

「軽い」、「ばらされてもいい」秘密なら変わってきますが、「重く」、「ばらされたくはないけど言わないとやってられない」ような秘密は上記の状態が多いでしょう。

では、どんな人にそれを言うのか。多くは2パターンでしょう。「害のない人」と「信頼できる人」です。

「害のない人」はその秘密をばらす上で関係性の薄い人が多くになります。ニュアンスは分かりやすいと思います。例えばですが大学の恋愛相談を違う大学にいっている高校時代の同級生にする、みたいな。

ではもうひとつの「信頼できる人」は?これは完全に個人の裁量でしょう。自分の気持ちを落ち着けるために、でも言われては困る、だから口を固い人間を。多くはこんな感じですかね?

まあ、こう偉そうに述べてるのには訳があります。

そうです。私にはこの「秘密を言う」ということをしているからです。同じ秘密を二人にも(前回の記事を読んだ人はこういうところでピエロさんは情報収集するのですよ)。

一度目は心にゆとりを作るため。誰にも言えないことを作ると、いろんな気持ちに押し潰されます。自分を失うことだってある。私は弱い人間です。それに耐えられませんでした。なので「信頼している」友人に話すことにしました。

二度目は理由説明です。不幸なことと不幸なことが重なると「秘密」をしらないひとには訳のわからないと思える行動、言動をしてしまいます。誤解してほしくない、と強く思う人に「秘密」を明かしました。

二回とも、自己中ですが、別の意味で勇気がいりました。まあ、完全に二度目の方が勇気はいりますが。

どちらにおいても、自分をいい方向に導きたい、でもこれをいったらひかれる、嫌われるかもしれない、という葛藤がまとわりつきます。

その葛藤に悩み、それでも打ち明けるべきであると判断したので僕は二度、そうしました。

「秘密を言う」ということは話した相手が前回あげた「秘密を守る」というめんどくさいことになってしまうリスクがあるということでもあります。

でも。それでも。自分を楽にしたい。あの人ならわかってくれる。その気持ちのもとに気持ちを吐き出します。

「言う側」、「守る側」両方経験した身からすると、もし誰かが決心して「秘密」をあかし、相談してきたなら是非快く聞いてあげてください。いろんな勇気をもった上で話す側も話しています。聞くだけで救われます。

Can you say your secret?
あなたは葛藤のなか、秘密を言うことはできますか?もし言う勇気ができても誰でも彼でもではなく相手をしっかり選んで。自分のためにも、まわりのためにも。

ジングルベルのリア充の鐘が天王寺のホテルで聞こえてきたのでここらへんで。

Can you keep a secret?

人とは「秘密」が好きな生き物である。そこには「私を含めてごくわずかしか知らない」という「希少さ」やそれを知っているという「優越感」があるから、というケースも多くある。

実はサークルの◯◯と付き合ってるねん、だまっててな。

こんなかんじに。

まあ、よくある話と言えばよくある話。でもこれを本当の意味で「隠す」というのは中々にしんどいのだ。

今回はそんな、「隠す」ということについてばばーっと書いていこうと思う。

私にもこんな人の秘密を隠しているときが何度かあった。

知ってても知らないふりもしたし、バレそうなら疑いが紛れるようにしたり。いろんなことをした。今思うとクスッと笑えてしまうことも多々あった。ホント、あれやこれやしたなぁ。

でも、隠している間、多くのことに「敏感」になり、また「鈍感」になった。

もちろんばらさないで、と頼まれている以上私から口を出すことはなかったし、むしろバレそうな空気が流れたときは必死にばれないようにした。だってそいつにとっていいことじゃないから。だからいつばれそうになっているか、そうじゃないかをすぐにでも把握できるように噂話に「敏感」になった。

しかし、先にも書いたが露骨に反応しても「お前なんかしってんのか?!」となりかねない。なので「鈍感」なふりをして、へらへらしていた。

本来相反する二つのものが共存していた。「事実」という素顔を見せないために「仮面」を被っている「ピエロ」だったわけだ。

ピエロというのはこんなにも大変なのかと思った。気を抜いたとき、ふとしたときに余計なことを言わないのがあまりまえ、それができなければピエロ失格なのだ。そしてこの「ピエロ」というのが「大人になる」ということなのかな、とも今思う。

今後、社会に出て多くの「秘密」を隠していくことになるだろう。今はこんな風にだらだらと書けるくらいには思うことはある。でもいつかそうも思わなくなるのだろう。「ピエロ」になることが当たり前、しっかりなれて一人前。

人がベラベラ話している秘密ならここまではしなくてもいいかもしれない。でももし人から聞き出した秘密ならこれくらいのことはしないといけないと思う。

Can you keep a secret?
あなたは秘密を守ることができますか?

「思い出は億千万」から考えてみる。

 暑い暑いアツゥイ!!

 

といった日が何日も続く今年の夏。体力落ちるし運動しなきゃなぁ、と思いながら部屋でゴロゴロしながらYouYubeを見ている時に次の動画欄にとある動画が見えた。

 

   「思い出は億千万(verゴム)」

 

 まーた懐かしいものを。なつかしい!と共感する方もなんぞ?というかたもいると思うので軽く説明を

 

ファミコンソフト『ロックマン2 Dr.ワイリーの謎』のワイリーステージのBGM「Dr.WILY STAGE 1」に誰かが歌詞をつけたものの一つ。「おもいではおっくせんまん」あるいは単に「おっくせんまん」と呼ばれることもある。

 

歌詞の内容としては、子供時代を懐かしみながらも昔に戻ることは出来ない哀愁を歌っている。あまり詩としての捻りはなく、ストレートな歌詞であるが、それがかえって子供時代を思い起こさせる。またロックマンというゲーム自体の懐かしさも相まって非常にノスタルジックな歌である。「歌ってみた」系動画で大勢の歌い手によって歌われていることからも人気の高さがうかがえる。(「ニコニコ大百科(仮) 思い出は億千万」より一部抜粋)

 

 ロックマンというゲームのBGMに誰かが歌詞をつけ、それを多くの歌ったことにより人気を博した歌。JAM PROJECTも歌っていたりする。

 

 解説はここまで実際聴き直した感想を。

 

昔聞いたよりも心にグッとくるなにかがありましたね。


 他のかたはどうか知りませんが僕は音楽に関して


 「リズム感」→「歌詞の意味」


と認識することが多くある。曲のリズム感に惹かれて、そこから歌詞をじっくり見る感じ(当然例外の曲も多々ある)。


以前(多分中三とか)聞いたときはリズム感のみにはまってた感じ。今回はしっかりと歌詞、PVを見た感じである。


「振り返ってもあの頃には戻れない」


「でも今じゃそんなことも忘れてなにかにおわれるように毎日生きてる」


「でも今じゃそんなことも忘れて何かから逃げるように毎日生きてる」


「ただあの頃振りかえる、無邪気に笑えた汚れも知らないままに」


ここら辺の歌詞でグサッときた。


私はまだ学生だ。しかし、もうすぐ社会人でもある。戻れない日々、逃げるようにいきる日々、以前以上になにかと考えてしまう。


 しかし、落ち込んでいるばかりでもないのだ。私には振りかえるに足りる思い出がたくさんある。また、期間は限られているが振りかえるに足りる思い出を今後作っていく時間もある。


 時間を怠惰に過ごすことは容易いことだ。でも、それでなにか残るだろうか?


有限な時間、どう過ごすべきか、考え直すよいきっかけになった。


石北会系……しまったしまった……

意識高い系の話がしたかった訳ではない。後悔のないように残りの学生生活を過ごしていきたいと思っただけである。


さて、もっとバカして、振り返ったとき、満足できるようなそんな思い出を作っていこう。





 

 

銀塩少年~一途な想い、強い想い~

取り組んでいたことも終わり、今まで放置していた漫画の整理でもしようと思い、本棚を開いた。
わりと読み込んだものから平積みにしただけのものまで、意外とたくさんの種類の漫画があった。

銀塩少年があったのはそんな本棚の一番上の段、右の奥の方にあった。

この漫画は中学生か高校生の頃に買ったものだ。とても懐かしい。

買った理由は「好きな漫画家のアシスタントさんの作品だから」という、「いや、中身じゃねーのかよ」とつっこみたくなるようなもの。

しかし、漫画を買い始めた頃に買ったものなのでホントに懐かしく、本棚の整理は一旦休み、手にとって読み始めた。

あらすじはこうだ。
あるところに写真を撮るのが大好きな少年マタタキと元気っ子ガールミライがいた。マタタキは「置きピン」という、景色を予想してシャッターを切る撮り方を得意としている。そんなある日偶然マタタキは未来の写真を二枚もとってしまう。一枚は自分が想い寄せるミライが知らぬ男とキスをしてるもの。もう一枚は自分が死んでいるもの。そしてマタタキは決意する。ミライが自分と付き合う未来に変えようと、例え自分が死ぬことになっても。

恋愛とSFが混ざった作品で全四巻。一気に読むにはよい分量だ。

ここからは多少ネタバレが入るため、この作品を読もうと思ってる方は自己判断で。














読み直しての率直な感想を一言で

なんて一途な想いなんだ

これにつきるのではないだろうか。

言ってしまえばよくある恋愛ものである。しかし、今作は自分の死が関わっている。そのまま行けばもちろん死んでしまうが、逆に言うとマタタキはミライを諦めれば生き延びることもできるのだ(実際物語のなかでマタタキに想いを寄せる別の女の子が出てくる。)

それでもマタタキは自分が好きで、写真を撮る動機でもあるミライのことを諦めない。

ミライがその他の男と二人で海外にいこうとも、付き合おうとも、プロポーズされようとも。

この作品では未来の写真に関する最終的な定義はこうだ(明かされたのは最終巻)

写し出されるのは「防ぐべき未来。そして「ふたり」の想いがないと写らない」

そう。ミライも初めからマタタキに想いを寄せていたのだ(なぜ他の男と海外に行ったりしたかは今回割愛)。


作中の台詞にこんなものがある

「想いの強い人間が救われる世界であってほしい。」

この世の中、想いだけではどうにもならないことは多くの人が実感しているだろう。恋愛も、仕事も、人間関係も。運やずる賢さ、悪意、個人の私利私欲などで訳のわからない方向にいくものだ

ただやっぱり私としては想いの強い人間が報われてほしいと思う。もちろん引き際も大事である。しかし、その人、そのものに想いの強い、思い入れの人間に幸福が訪れてほしい、この世がそんな世界であってほしいと思う。

銀塩少年にはこの意外と見落としかけている「一途な想い」「強い想い」が愚直に描かれている。そこが読み直していいな、この作品と思ったところだ。

今回の銀塩少年との再開を何かの縁だと思って、気分であるがブログを開設した。

文才などない。皆無だ。国語は苦手科目だ。しかし大人はよくこういう。
「大人になるとなかなか感動しなくなる。若い頃のほうがよく感動できた」と。

ものをみて色々と思う「これ」はいつか消えて忘れてしまう、そして二度と手には入らないのだそうだ。

それはいやだ。

そう思い、自己満足ではあるが自分が触れたものに関して思ったことを書くこのブログを立ち上げた。

漫画やアニメ、本や曲などで思うことがあったらまた更新しようと思う。

では、また会うときまで。